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      <title>3793	私書箱青砥さんの超個人的ブログ</title>
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      <description>私書箱青砥さんの超個人的ブログ</description>
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      <copyright>Copyright 2009</copyright>
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         <title>フランクフルトについて</title>
         <description><![CDATA[政治都市である首都ベルリンに対する経済の中心都市である。2008年には、グローバリゼーションと世界都市の研究グループおよびネットワーク（GaWC）により、第1級世界都市-に選ばれている。

レーマー広場とその周辺のマイン川河畔では、ゲーテハウス（ゲーテの生家）など第二次世界大戦で破壊された旧市街・建造物が復元されている一方、ドイツを代表する多くの銀行（ドイツ銀行、コメルツ銀行、ドレスナー銀行など）の本店が入居する超高層ビルが林立する一角もあり、「マインハッタン」（マイン河畔のマンハッタン）の異名を持つなど、他のドイツの都市とは異なった趣の町並みをしている。EUに於ける金融システムの元締めである欧州中央銀行も、この街に本店が置かれている。欧州中央銀行の前には、新しいほうのオペラハウスがある。

単に フランクフルト (Frankfurt) と呼ばれることも多いが、ドイツには、旧・東ドイツの側、ポーランドとの国境近くにもう一つの「フランクフルト」、フランクフルト・アン・デア・オーダー（直訳：オーデル川沿いのフランクフルトFrankfurt an der Oder）があるため区別するため、「アム・マイン（マイン川沿の）」を付して呼ぶ。

市内には日本領事館がおかれている。また、多様な国籍の人間が居住する国際都市である。


ローマ人により古代時代にはローマ軍の駐屯地であった。フランクフルトの地名は西暦5世紀頃にフランク王国が、隣国のアレマン族との戦争の際に、マイン川を渡る地点として選んだ、浅瀬の場所を「Frank（フランク人）Furt（渡る場所）」と呼んだ事に由来する。

中世に入っては神聖ローマ帝国都市として発達を遂げ、やがて見本市（メッセ）都市として発達していく。 8世紀末には、カール大帝の伝記を書いたアインハルトがこの町をフランコノフルトとよんでおり、カール大帝の治世には王国会議が数回ひらかれた。市の重要な教会であるバルトロメウス大聖堂は9世紀の教会があった場所に13世紀に建設されたもので、1356年の金印勅書には、ここを神聖ローマ帝国皇帝選挙の地とさだめられ、1562年以降は戴冠式もおこなわれた。 1372年にフランクフルトは自由都市となり、1530年ごろにはプロテスタントの拠点のひとつとなった。1806年のライン同盟成立によってその支配下にはいったが、1815年には自由都市としての地位を回復した。1848年の3月革命の際には、最初の全ドイツ国会であるフランクフルト国民議会がパウルス教会でおこなわれた。第二次世界大戦中には爆撃により大きな被害をうけたものの、1993年にEUのヨーロッパ中央銀行の準備機関であるヨーロッパ通貨機構の所在地に選ばれ、1998年にはヨーロッパ中央銀行が設置されるなど、現在ではドイツ経済の中心地となっている。

だが最も市民及びドイツ人がこの街を誇りに思うのは、この街がゲーテを生んだという点においてである。哲学者ショーペンハウアーが後半生を過ごした街としても知られる。商業の活発さは他の都市より多くのユダヤ人を招き、特に大きなユダヤ人街（ゲットー）が今日にも存在する。イギリスに移って「ロスチャイルド」と呼ばれるロートシルト家も、また20世紀後半の資本主義社会の大衆操作の社会の実像を鋭く分析したホルクハイマー、アドルノらのフランクフルト学派は、フランクフルト大学出身の社会学者が中心になった。かつてドイツが東西に分断されていた当時には、この地は西ドイツのほぼ中央に位置し、その首都候補の一つでもあった。

『ウィキペディア（Wikipedia）』引用

フランクフルトの夜景は香港の夜景に匹敵するくらい美しいです。

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         <pubDate>Wed, 16 Dec 2009 20:14:58 +0900</pubDate>
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         <title>運慶</title>
         <description><![CDATA[かっこいい名前ですよね！

運慶（うんけい、- 貞応2年12月11日（1224年1月3日））は、平安時代末期、鎌倉時代初期に活動した仏師。

経歴
 
東大寺金剛力士像運慶は、奈良市・興福寺を拠点に活動していた奈良仏師康慶の子である。長男湛慶が承安3年（1173年）生まれであることが、京都市・妙法院蓮華王院本堂（三十三間堂）本尊の台座銘から知られ、運慶は12世紀半ば頃の生まれと推測される。

運慶の現存最古作は、安元2年（1176年）に完成した奈良・円成寺の大日如来像である。寿永2年（1183年）には、以前から計画していた法華経の書写を完成した。この法華経は現在「運慶願経」と呼ばれている（京都・真正極楽寺蔵および個人像、国宝）。経の奥書には、後に仏師として活躍することの知られる者を含む、名に「慶」字を用いる結縁者名が記されている。このことから、奈良仏師の中で、康慶の一門が「慶派」と呼ぶべき一派を成していたことがわかる。

治承4年（1180年）に平家の兵火により、奈良の東大寺・興福寺が焼亡する。興福寺の再興造像は、円派、院派と呼ばれる京都仏師と、康慶・運慶らの属する奈良仏師とが分担した。当時の中央造仏界での勢力にしたがい、円派・院派のほうが金堂・講堂のような主要堂塔の造像を担当することとなり、奈良仏師では康慶が南円堂の本尊を担当し、本家筋にあたる成朝は食堂の本尊を担当することとなった。

成朝は、なぜか食堂本尊の造像に専念せず、文治元年（1185年）に源頼朝の勝長寿院本尊を造るため鎌倉に下向した。 一方、運慶は文治2年（1186年）正月に興福寺西金堂本尊釈迦如来像を完成したあと、成朝の動向に連続するかのように、鎌倉幕府関係の仕事を開始する。その年5月3日には、北条時政発願の静岡県伊豆の国市・願成就院の阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像を造り始めている。またその3年後、文治5年（1189年）には、和田義盛発願の神奈川県横須賀市・浄楽寺の阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像を造っている。

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願成就院の仏像は、平安時代後期の仏像とは隔絶した、めざましい作風を示している。平安後期に都でもてはやされた定朝様（じょうちょうよう）の仏像は、浅く平行して流れる衣文、円満で穏やかな表情、浅い肉付けに特色があり、平安貴族の好みを反映したものであったが、分業制で同じような仏像を量産した結果、無個性でマンネリ化した作風に陥っていた。対して運慶の作風は、仏像の男性的な表情、変化に富んだ衣文、量感に富む力強い体躯などに特色があり、こうした作風が東国武士の好みに合致したものと推察される。運慶は、奈良に当時多く残っていた仏像の古典作品を研究し、独自の作風を切り開いたものであろう。それが願成就院諸像で開花したのは、定朝様の規範に制約されない、東国の武士発願の造像であったからと理解される。

建久7年（1196年）には康慶、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像と四天王像の造立という大仕事に携わるが、これらの像はその後大仏殿とともに焼失して現存しない。現存する大作としては建仁3年（1203年）造立の東大寺南大門金剛力士（仁王）像を挙げねばならない。造高8メートルに及ぶこれらの巨像は、平成の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶（運慶の子）が小仏師多数を率いてわずか2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられている。 承元2年（1208年）から建暦2年（1212年）にかけては、一門の仏師を率いて、興福寺北円堂の本尊弥勒仏坐像と、無著・世親像を造っている。殊に無著・世親像は肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作に数えられている。

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最晩年の運慶の仕事は、源実朝・北条政子・北条義時など、鎌倉幕府要人の関係に限られている。その中で、建保4年（1216）には、実朝の養育係であった大弐局が発願した、神奈川・称名寺光明院大威徳明王像を造った。
（以上、ウィキペディアより引用）

すごい人ですよね！]]></description>
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         <pubDate>Wed, 09 Apr 2008 09:55:13 +0900</pubDate>
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